木曽義仲が
平家討伐に旗上げした
 
海野宿
        交 通   上信越自動車道・佐久インターより上田方面へ15km  ん      
      
鉄 道  しなの鉄道、田中駅下車 徒歩20分     
所在地  長野県 東御市 本海野 
 軽井沢の西、小諸と上田の中間にひっそりとレトロな町なみ海野宿がある。海野宿は中世の豪族海野氏の時代と江戸時代の北国街道の宿場町として、そして、明治初期には蚕種業の成功の時代とそれぞれの時代に適応するように町の使命を変換しながら繁栄した。中世の海野は、治承5年(1181年)木曽義仲27歳の時、平家討伐に挙兵し、中信濃の豪族、海野氏や望月氏の支援を受け、この海野の地で千曲川の河原に3千の兵を集め旗上げをして歴史上に登場した。
江戸幕府は、佐渡で掘られた幕府の御用金を運ぶため、この海野に宿場町を建設した。北国街道は、佐渡道、金の道、善光寺道、加賀道とも呼ばれ賑わった。今日の町はこの時代のままの姿で活用されている。明治に入り宿場の建物を活用し蚕種製造に精魂をかたむけた。現在の海野宿には、この蚕種製造で得た富により、建設された建物が多い、特に“気抜きの櫓”と称される越屋根は、養蚕には欠かせない装置である。民家は“みち”から直接“みせ”に上がり、住民は“通りにわ”を通り裏庭に抜け、
その裏の生活道路へと通じており“内と外の融合”が極めてスムーズであった。中央の水は、宿場の時代は、馬を洗い、旅人の足を洗い、防火用水とした。昭和初期まで生活用の中水として、洗濯等に日常的に活用されていた。海野宿のもう一つの特徴は、「卯立つ」である。延焼防止用に妻壁を立ち上げた「本卯立つ」、2階軒下から1階屋根上に壁を立ち上げた「袖卯立つ」、2階の軒下部分に防火壁を造る「軒卯立つ」等があるが、この海野宿はダイナミックな「袖卯立つ」が特徴である。
海野宿は、街道の中央を流れる水路とその南北両側の道、さらにその南北両側には、間口を狭く奥行きを深く地割りされた民家が連なる。そしてさらにその南北両側には、北は”しなの鉄道”沿い、南は千曲川の堤防沿いに、“夜逃げみち”とも“女みち”とも称される歩行者専用の生活道路がある。ランドマークとなる白鳥神社を中心に領域の明確な海野宿は戸数114戸、面積132haで敷地の平均間口はおよそ12、6m、奥行きの平均は約66、2mである。奥行きは間口の5倍あり、裏庭では菜園を耕作している。

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