白壁のまち |
柳井・古市金屋 | |
n nn 交 通 : JR山陽本線、柳井駅より徒歩10分。 車 : 山陽自動車道玖珂インター又は熊毛インターより25分 nnnnnnnnnn所在地 : 山口県柳井市金屋ほか |
||
・江戸時代の油の大集散地は、山口県の柳井と三重県の四日市であった。江戸時代のあかりは、主として灯油を用いたが、この灯油の原料は菜種と綿実が中心であった。幕府は灯油製造を厳しく統制し、この厳しい統制のため、許可商人は独占的権益を確保し、町は繁栄した。 この時代、柳井には問屋八軒、八ケ所、搾油機十六と記録されている。その中でも最大手は、小田家「むろや」で五十石から百二十五石の積船を、五十艘も所有し、九州から京・大坂へ商取引を行い、現有する屋敷も表の金屋通りから、裏は銀天街まで奥行119mもある。屋敷内には建物が11棟あり、中でも「半閑舎」は、岩国の殿様、吉川公がよくお泊まりになった離れ座敷である。 |
||
18室ある主屋と共に、2,400m2の敷地と1,500m2の建物は現有する町家の中では最大のものという。この町は、地割りが室町時代初期に行われ、今日そのままで活用されている。その形態は一本の街路に間口を狭く、奥行きの長い宅地を接道させた串形である。さらに「白壁のまち」と言われているように、白壁の塗り家造りで、外観は妻入り入母屋造りのダイナミックな民家が多い。塗り家造りは町全体を防火構造にして、火災から守ろうとする意図であろう。 | ||
商業都市らしく、店は街路に対し大胆に開放的であった。この町と家を区切る「空間装置」を「ぶちょう」という。「ぶちょう」は、蔀張からきた言葉で「しとみ戸」のことである。平安時代の寝殿造りの建具に端を発するといわれている。 | ||
この変幻自在の便利な建具は幅1間の柱の間に横長の3枚の板戸を下2枚柱の溝に落とし込み、上の1枚は、内側に跳ね上げ蔀つり金具にかける、板戸をはずし、別に用意してある障子を入れ採光窓としても活用するが、建具をすべて取り、柱もはずしてしまえば、手品のように通りに面して全面開放された街路と一体になった商空間が生まれる重要文化財、国森家で詳しく見る事が出来る。国森家の敷地は裏の柳井川まで続き、油の製造から流通の商いをしていた。当時から持ち出し禁止であった屋久杉が用いられ、和室はふすま壁仕上げとなっている。外部は建物の防火性を高めるために、「ぶちょう」の前に防火シャッターとしての、「土戸」が入れられた。「土戸」は、火災発生時のみ建て付ける木製土壁塗りの防火戸である。 | ||
江戸時代、吉川公も愛用したとされる伝統の「甘露醤油」は、現在も生産販売されている。左の佐川醤油は蔵の中も見学でき販売されている。 | ||