あてまげの町
富田林・寺内町

  交 通 大阪難波より近鉄長野線富田林下車南へ200m
      所在地 大阪府富田林市富田林町 

富田林は都会に近く生き続ける江戸末期のまちである。永禄3年(1560年)西本願寺宗興正寺14世、証秀上人は、礼銭百貫文をもって、南河内地方の荒地を申し請けて興正寺を建立し、周囲に畑、屋敷、町割等をして名称を富田林とした。証秀上人が申し請けた場所は、南と東に10メートル程の高低差のある崖となり、西側も3メートル程の落差がある羽曳野の台地が石川の流れによって造りだされた舌状の自然の要塞となった場所である。証秀上人は、ここに興正寺を中心とした信者による“理想郷”を築こうとしたのであろう。広さは、東西、南北共に350メートルの四角い土地に七筋八町の町割をした。

「筋」は南北の通り、「町」は東西の通りをいう。まちの外周には、土居を巡らせ竹を植え、入り口は4ヶ所とし、門を設けた。4門は、東の千早街道に至る山中田坂、西は東高野街道の西口、北の一里山口、南の向田坂である。

富田林の街路は、東西、南北に道を通す格子状のまちであるが、交差点では、「あてまげ」と称されるように、道が直線で通らず、道幅の半分から三分の一ぐらい喰い違う形になっている。この為に町角の家は、その通りの遠く離れた距離からも、道の正面にその家の一部が見えるようになり、道路空間に視認距離で、領域性が出来るとともに、道の突き当たりの建築意匠がその街路の印象をつくり、町に個性と愛着が生まれる。「あてまげ」に見られるジグザグの造形は、街角だけでなく町全体に、建築と街路のわずかなカーブによって生じる空間でも見られる。

 建物は京都の町家のように、間口が狭く奥行きを深くして、通り庭に接して居室を並べていく平面プランでもなく、間口は広く土間に隣りあって、居室を2列に横方向に並べてゆく農家形平面が基本となっている。富田林の場合は町割りが東西に長く南北との比率が2;1の短冊形の道路に囲まれ、各敷地の奥行きが浅くなった。この為、主屋は道の境界いっぱいに建て、街路を共通の前庭として活用していたものと推測される。土居で囲まれた限られた地域で、高密度に発達した町の一つの結論であろう。奥に伸びず横に伸びる屋敷は、主屋と蔵や付属屋は、街路に面して建てられ、その建物の間には中庭が設けられる。中庭と街路は塀で仕切られている。

街路に面するこれらの機能の異なる要素を、意匠的に統一して、多様な変化のなかに調和のとれた美しい町なみとなっている。代表的な民家に、杉山家や越井家などがある。杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の1つで国の重要文化財に指定され市の監理のもと公開されている。寺内町の中心は、興正寺で鼓桜がこれにあたる。鼓桜や鐘桜は町の中央部の城之門筋の角地にあり、遠くからも良く目立ち、通りを行く人に適切な位置関係を与える。さらにこれらの発する鐘の音は、寺内町独特の地域の印象を形作る特長として住む人に心のよりどころとなり、まちのシンボルともなっている。

明治15年杉山家の長女として生まれた孝子は、女流詩人石上露子として活躍、「新誌社の5才女」と称され、悲恋の女心を唄った「小板坂」は代表作である。

ゆきずりのわが小板坂 しらしらとひと枝のうばらいづこより流れかよりし。         
君まつと踏みし夕に  いひしらず汲みて匂ひき。 今はとても思い痛みて 君が名も夢も捨てむとなげきつつ夕わたればああうばら、あともとめず 小板坂ひとりゆらめく
”                     ゆふちどり

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