飛騨の巧みが造ったまち 飛騨高山


                    交 通 : JR高山線 高山駅下車 徒歩10分。            
                    所在地 : 岐阜県高山市上三之町他

高山の歴史は 戦国時代の飛騨は、三木自綱が治めていたが豊臣秀吉の命を受けた越前大野の金森長近は、飛騨に攻め入り三木氏を滅ぼし、この地を“高山”と名付けた。まちの中央を南北に流れる宮川の清流を京都の鴨川に準えて造られたこのまちは、町なみの美しさも相まって「飛騨の小京都」と称されている。金森長近は、天神山に城を築き「高山城」とし、麓に武家屋敷町と、一之町、二之町、三之町、を造りそれぞれを、町人町として周辺より町人七百人を呼び住まわせた. 現在、も城下町建設当初の道路網、敷地割り等と、ほぼ変化はない。
金森氏は農民を弾圧し激しい一揆となり、領地は天領となり農民も困窮したそこで 収穫のない農閑期には、男は京へ上り大工として働いた。この腕前が大変な評判で、「ひだのたくみ」と呼ばれ重宝された。彼らは、京の寺社建築や宮廷建築の技術を身につけ、地元高山で、豪商達の民家を建築し、現有する国の重要文化財、日下部邸、吉島邸等のみごとな作品を残した。両邸共に土間に大きな吹き抜けがあり、大黒柱を中心に梁と束によって構成された立体格子が高窓から落ちる光による陰影をつくり、その色合いを変化させる。

日下部邸は‘いろり’の墨で黒光りし、吉島邸はベンガラ漆で赤光りをしている。アメリカの建築界の巨匠チャールズ・ムーアがこれを見て絶賛し世界に紹介した。建物は、江戸末期(1832)の大火で、ほとんどやきつくされ、現存するのは、その後、建築されたものである。江戸時代の建物は、軒高が低く、五メートル未満であるが、明治になると軒高は五メートルを越えて本二階建てとなる。又、土蔵や、屋台蔵は、六メートルを超え、スカイラインに変化を持たせる。しかし、道路に近い庇は、江戸時代から昭和期の建設まで、その高さはほぼ統一されている。つまり、軒高の変化と庇の統一が、まちなみに心ち良い雰囲気を演出している要因であろう。
有名な高山まつり
さらに高山の町なみの特徴は、格子である。従来は、蔀であったが戸締まりに手間が掛かり、暗いので格子をはめ込み内側に障子を入れる家が多くなった。格子は、それぞれの家により、微妙に意匠が異なる。これも又、統一の中、ディテールでの個性化を図る為であろう。通りには、宮川から取り入れられた、せせらぎが流れている。この、せせらぎで、水車を回し、鈴の音を鳴らしているのが実に風流である。 

この町を旅する便利な情報集   

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