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・倉敷は、古くから港町として集落が存在していた。大阪冬の陣では、松山城主小堀遠州は、倉敷から米13万8千石を家康に送っている。この功績が認められ倉敷は天領となった。天領地となると、代官所が置かれ商人は、税金などで優遇されたため川畔は一層の活気に満ち繁栄した。当時の荷揚げ場や、大八車のレールとなった石畳、常夜燈など積み出し港の特徴的な工作物が現在の保存地区の重要な景観要素となっている。
・藩主池田光政の時、大規模な新田開発が行われ、児島と倉敷の間が造成され陸続きとなった。その中に人工の運河“倉敷川”が誕生した。さらに昭和に入り、水島工業地帯がその沖に埋め立てられ、町は、内陸部に後退した。 |
建物の特徴としては町家は、塗り屋造りで、倉敷格子とも称される親付切子格子がある。これは、主に主屋一階の正面の柱間に敷居から内法の間にはめ込まれる大きな格子である。上下を通る親格子は見付け100・で親格子と親格子の間に、上端が切り詰めてある見付け33・程の細かくて短い子格子が2〜3本入れてある。一般的には、親子切子と称するが、京都では、糸屋、紺屋などに多く用いられるので糸屋格子とも呼ばれる。倉敷ではこの中に符錠戸を入れることが多い。さらにこの格子は内に向かって開かれるか、内側に跳ね上げられるようになっており祭礼の時には、当家自慢の屏風が外に向かって展示されたのであろう。代表的な大原家の住宅は、主屋は本瓦葦、妻側には、付庇をつけているので一見すると入母屋造りの屋根のように見えるが、実は切妻造りである。 |
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・倉敷の景観を特徴つけるのに保存地区に多く存在する土蔵とその白壁となまこ壁のコントラストがある。明治に入り代官所が廃止され、西洋の近代化の波に倉敷の商人は積極的に取り組んだ。倉敷川畔の水運を利用した繊維産業で再び躍進期を迎える。父、大原孫三郎の意志を継いだ、大原総一郎は、昭和12年欧州を視察して、ドイツの古都ローデンブルグに感銘し、「倉敷ブルグ構想」を描いた。この時、彼は30歳であった。以後30年あまり、彼の生涯は、精力的にブルグ構想の実現に注がれた。父の残した大原美術館、有隣荘等と共に、倉敷川畔の歴史的景観の核となる、旅館くらしきの改装、考古館の整備、喫茶エルグレコの改装、美術館の版画館、染色館の竣工、内外の専門家との交流を通しブルグ構想は、実現へ着実に歩みはじめた。昭和54年には、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、先覚者達の努力は地区住民の町を愛する気持ちと相まって“まちなみの文化的な価値”という概念の育成に多いに貢献した |