★室町時代、京の都に物資を運ぶルートは、 若狭湾 で陸揚げして、 琵琶湖 を経由して 淀川 水系で運ぶ、内陸水運ルートが主流であった。江戸時代 になると、大量の 米 を大阪で換金していた 加賀藩 が、西回り航路で100石の米を大坂へ送る事に成功した。又、 江戸幕府 も当時 天領 であった 出羽国 の米を大坂まで効率よく大量輸送するため 河村瑞賢 に命じたこともこの航路の起こりとされる。
西回り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。ちなみに江戸時代の 和船 では、大坂と北海道の往復は風や潮の流れを利用した航海であるため通常は年に一航海であったが、北前船の一回の航海で現在の貨幣価値に換算すると約1億円の利益があったと記録させている。
★橋立は、18世紀中頃に、船乗りから北前船の船主になる者が現れ始め、北前船の船主は一族や村人を船頭や船乗りにしたので、村は廻船業で急速に発展した。18世紀末頃には橋立の船主と船頭の数は、あわせて42名にもなった。19世紀に入ると橋立特有の、切妻造妻入り瓦葺きの、従来から比べると格段に規模の大きな「北前船主型」の家が誕生する。 |
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写真左上は、北前船の里資料館の外観である。 この建物は、明治11年に建てられた橋立町の旧北前船主酒谷家邸を昭和57年11月に加賀市が譲り受けその一部を改修し、北前船の専門資料館として一般に公開している。広い邸内には、生活館(雛人形や和時計などさまざまな生活用具を展示)衣装館(船主が嫁ぐ娘に持たせた打掛を展示)船絵馬館(市内に残る代表的な船絵馬を多数展示)引札館(
色鮮やかな全国の引札(江戸・明治期の広告チラシ)を展示)
・ビデオ館
(
北前船の歴史と概要についてパネルやビデオで解説)などがある。
写真上は、北前船の里資料館の2階より橋立集落を見る。
屋根は雪に強い石州赤瓦で葺かれている。
写真左は、資料館前のまちなか広場から新町通り方面を見る手前の看板は、うどん屋”ばん家”甘エビの天ぷらが乗ったうどんが名物。
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★橋立の船主の住まいは、「北前船主型」と称される独特の形式である。
特徴は、妻入りの大邸宅(一般的に間口は5間(約9m)奥行き9.5間(約17m)ほど)の中2階建ての堂々たる建築である。
間取りは、玄関(風除室)を入るとニワと称する土間になり右横には便所・風呂場が、左横には茶の間・ダイドコロがある。正面は豪快なオエと称する囲炉裏のあるリビングが開ける。柱はケヤキの八寸角を漆で仕上げ、梁は松材、板戸は秋田杉である。(写真右は、民宿 北前船の田中家のオエ)、さらに奥には、八畳の和室が六室あり、それぞれクチノマ・クチナンド・ザシキ・ナカナンド・ブツマ・カギノマと称される。
民宿 北前船では、このような豊かな空間で家主さんの手料理で昔の集落の栄華の物語を伺いながら食事ができる。
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板塀や蔵の基礎には笏谷石が用いられている。
笏谷石は、
灰青緑色で雨に濡れると一段と美しい。
柔らかく鋸でも切れるほどで、下地に太い和釘で打ち付けて固定する。
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★橋立の船主のまちなみの特徴としては、変化に富んだ地形が作り出す独特の空間である。
地区内には5本の主要道路があり、これに面しておおよそ短冊状に宅地が並ぶ。しかし、起伏に富む地形に合わせたため、宅地形状はさまざまである。明治大火前の「橋立古絵図」と現在の街路や地割を比べると、江戸末から明治初頭の集落の基本構成が、今も変わらずに残されている。宅地は周囲を塀や石垣で囲み、街路から少し離れた位置に主屋を建て、街路に面する位置や主屋周囲に土蔵や付属屋、納屋などを設ける。建物や塀の基礎石、石垣、参道や宅地への石段や石敷には淡緑青色の笏谷石(しゃくだにいし)が使用され、集落に柔らかな質感と独特な風合いを与えている。
伝統的建造物群保存地区は、東西約680m、南北約550m、面積11.0haの範囲で、北東へ張り出す橋立丘陵の東側から北側にかけての地域である。丘陵の東側に「大聖寺往来」と称される街道が南北に、丘陵の北、海岸沿いに「海岸道」が東西に通る。丘陵の北東裾、地域のほぼ中央に、浄土真宗福井別院橋立支院があり、東南端に出水神社、北西端に集落の墓地であるサンマイがある。大聖寺往来と海岸道が交わる丘陵の北東部分にまず最初の集落が造られ、その後、海岸道と丘陵間の谷筋や、大聖寺往来、およびそこから分かれる出水神社への道に沿って集落が展開されている。 |