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・赤絵町という、いかにも職人街をイメージする名称がある。寛永年間、鍋島藩は、酒井田柿右衛門が開発した赤絵磁器の技術の秘法流出を防ぐため、赤絵付けの技術を知る人達を集住させ、「赤絵町」と命名した。又、それ以前、秀吉の朝鮮派兵により、多数の陶工達が来日した。その中の一人、李参平は、鍋島藩内を探索し、朝鮮の青磁・白磁が日本で生産できる場所(白磁鉱山)を求めた。数年後、有田で理想的な陶土を発見。藩は、皿山代官所を設置し、技術開発と育成、生産管理、流通を支配した。 |
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中国、朝鮮と変わらぬ良質の磁器が生産され始め、世界の富豪、王侯貴族達の室内を飾ることとなり、明治に入り、日本の輸出産業の主役ともなりさらに発展した。
・町はJR佐世保線沿いの有田駅と上有田駅の間、約4kmあまりの狭い谷間に帯状にあり、国道がJRに沿って通り、平行して日川・中尊寺川沿いには狭い路地がある。 |
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国道沿いには、大きな妻入りの土蔵造りの2階建、2.5階建、3階建の堂々たる建物が散在する。特に今泉家、蒲池家、原家、細川家、井手家、川内家等、よく整備された外観であり、住年の繁栄が伺える。又、明治初期にはヨーロッパとの交易がますます栄え、まちなみ様式にも洋風建築が見られるようになった。香蘭社陳列館、異人館等である。有田内山地区に147件のこれら伝統的建造物が存在する。しかし、私は表通りの豪華な土蔵造りよりも、もしろ路地に入り、製陶用の窯の廃 |