・古都・奈良はユネスコの世界文化遺産に指定された春日大社、春日山原始林、東大寺、興福寺、元興寺、平城宮跡、唐招提寺、薬師寺、法隆寺などの仏教建造物群は有名である。戦災に遭わなかった町である。奈良公園の近く、猿沢池から南へ歩いて5分ほどの所に“ならまち”はある。この町の歴史は古く、奈良時代には都(平城宮)が置かれ明日香から日本最古の寺院である飛鳥寺が移築され元興寺となった。ならまちはその境内に位置し、当時の路(条坊)は現在も街路として使われている。平安時代に都が長岡京へ移り平城宮は荒廃したが寺院は残り寺の仕事に携わる人々が住みつき「郷」と呼ばれるまちができ、室町時代には町民として自立するようになった。当時の奈良は東大寺境内、春日大社境内、興福寺境内、元興寺境内の4大寺院が勢力を競っていたが後に武家勢力と対立するようになった。 |
江戸時代に入り奈良奉行が置かれ、大寺院の門前町として又、晒しや酒などの産業の町として発展した。ならまちの中心、元興寺には極楽坊本堂、禅室など4つの国宝と東門、弘法大師座像など7つの重要文化財がある。さらに、ならまち全体では藤岡家住宅など29点の重要文化財が存在する。
ならまちの見所、モデルコース(半日コース)・猿沢池→・元興寺極楽坊宝物館→・名勝大乗院庭園文化館→・今岡家書院→・ならまち振興館→・ならまち格子の家→・藤岡家住宅→・奈良町資料館→・なら工芸館
ならまちの東北部にある今岡家書院はもと興福寺坊官、福智院家の住居で室町時代の様式をよく伝える書院づくりの建物である。(重要文化財) |
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藤岡家 |
ならまち格子に家は元興寺の藤岡家住宅の斜め前にあり、ならまちに住む町人の伝統的な町家を再現している。間口は3間ほどであるが奥行きはその5倍以上あり多くの人が都市に住み且つ、自然とふれあうくらしの知恵が読みとれる。例えば、通り庭はおもての通りから中庭、裏庭を結び狭小地でありながら外部との接点を多くし、高窓から通風、採光を図っている。通り庭は吹き抜けで二階から見下ろすと立体的に豊かな空間が出来ている。中庭は視覚的に自然を観賞する他、通風、採光に有効である。この家で格子の効果をゆっくり実感することが出来る。 |
床几 |
格子は、昼間、外からは中を見えなくするが中から外の様子はよく判る。祭りや火事の時は取り外し町と家を一体にさせる。
向かいにある藤岡家住宅は、江戸時代から“おはぐろ”や“びんつけ油”などを扱っていた商家で国の重要文化財に指定されている。伝統的町家の特長を示すエレメントを確認する事ができる。揚げ店(床几)と蔀戸は、床几を下ろし蔀を上げると店の間がオープンとなり道と店は一体をなる。土間にはかまどがあり上部には煙出しの小屋根が付いている。藤岡家は間口が7間半あり道に面し居室2室の他、坪庭に沿ったゲスト用の玄関(茶室)がある。 |
格子の家・中庭 |
ならまちの民家の屋根や軒先に様々な表情の「鍾馗様」がいる |
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・西新屋町の奈良町資料館は、旧元興寺本堂跡にあり、昔、町の入口にあったとされる“ならまち木戸”をくぐって中に入る。中には江戸時代の絵看板などレトロな看板700点が展示されている。ならまちの軒先に赤い丸い玉が連続してぶら下がっている光景をよく見かける。これは「身代わり猿」といって、猿が手足をくくり丸くなってお腹に帯をしている“ぬいぐるみ”である。これを持っていると災難を代わりに受けてくれるばかりか願いをも叶えてくれるそうだ。これと同様のものが敦煌石窟の祭壇等にかける祭具としても使われていたとの事である。
ならまちの民家の屋根や軒先によく見ると、様々な瓦の人形が乗っているこれは、「鍾馗様」で唐の玄宗皇帝を悩ました病魔を退治した魔よけの神様である。
やはり“ならまち”は遙かシルクロードの文化の終着点として深い関わりがあったのだろうか?
古い民家を活用したお店やレストランも多く見られる。 |