・奈良時代までは、“別雷”つまり農作に水を潤す神として、崇敬されていたが、都が京に移ると、王城の地主神として性格を変え、伊勢神宮に次ぐ、わが国第二の格を与えられ、歴代の皇女が斉王として奉仕した。江戸時代、上賀茂神社の社領は2,500石余りと言われ、この大きな社領を基盤とした神官達が明神川の流れに沿って神社の前に家を構えたのが、社家町である。
・明神川の上流は、上賀茂神社の境内から流れ、神社境内では“禊(みそぎ)”に使われる神聖な川で、“御手洗川”と呼ばれ、庭園では優雅な“奈良の小川”となり曲水の宴がひらかれたそして境内を出ると明神川となる。
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前庭部分には居室の反対側に納戸が設けられ、かっては米蔵として利用されていた。社家の住宅では接客空間が重視され、それは、床を備えた座敷を中心に展開されるが、玄関、庭園、客用便所、などが一体となって成立している。座敷へは玄関のほか、アプローチから中門を経て庭園へ入り、座敷の縁へ上がるルートが使い分けられていた。庭園は敷地の南側に造られるのが原則であるが、明神川の水を庭園に引き込む為、川の南の地域では庭園と座敷は北側に設けられる。・社家の代表的民家が“西村家”で公開されている。西村家は上賀茂神社の神宮、錦郡(にしごり)家の旧宅で庭園は1181年の作庭とされている。
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