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★小樽は三方山に囲まれ北側は石狩湾に面して開いている港町である。
背後の山塊は海ぎわまで迫っているため坂の多い町である。
小樽の先住民はアイヌ民族であった。小樽という地名は、アイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川の意)に由来する。約380年前(慶長年間)に松前藩の領地とされ、鰊漁場や北前船で賑わい集落が形成された(左写真は無料公開されている市立旧鰊御殿遠景)。
明治二年北海道開発使が札幌に置かれ、道内で採炭される石炭搬出港として日本で三番目の鉄道が建設された。断崖の難所開通を指導したのは、アメリカ人鉄道技師J・Vクロフォードである。 |
★明治後期には、日露戦争の勝利と共に我が国の北の中心都市として繁栄した。港湾整備計画として既成岸壁の前面を運河として残し、海岸は埋め立て造成された。我が国の領土であった樺太(現サハリン)、満州等の日本海交易の拠点として商社、金融機関が密集し「北のウオール街」と呼ばれるようになった。しかし、第二次世界大戦の敗北後、その使命は終わり町は衰退していった。市当局と地元経済界は、昭和41年、自動車社会の到来に対応する為、運河を埋め自動車道とする計画を決定した。市民や夏堀正元氏ら地元文化人は、次々と壊される石造建築を目にして保存運動に立ち上がり、昭和58年「歴史的建造物群及び景観地区保全条例」の制定を実現させ、運河についても半分は保存させることが出来、今日を迎えるに至った。 |
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★まちなみと建築
小樽の情趣をもっともよく感じさせてくれるのが運河とその周辺の石造建築群である。しかもこの石造に見える建築が実は、木造建築に地元の石材(札幌軟石)をかすがいで貼り付けた木骨石造であるからおもしろい。防火対策として漆喰壁とするところが、寒さで凍結する為に厚さ十五ミリ程の石材を外装に利用した。丁度、明治維新により欧米の文化を吸収して、アーチやドーマーなどルネッサンス様式を多様した。中でも日本郵船小樽支店(現市立博物館)は国指定重要文化財で佐立七次郎設計の荘重な意匠は、後の小樽の洋風デザインに影響を強くした |
★佐立と同じ現在の東大建築学部の第一期生である辰野金吾は日本銀行小樽支店を設計、窓際の柱の美しいエンタシスと上部の五つのドームが印象的である。尚、辰野金吾は全国の日銀支店の他、東京駅の設計でも有名である。小樽バイン(旧北海道銀行本店)、小樽グランドホテルクラシック(旧越中屋ホテル)、旧三井銀行小樽支店なども見逃せない。少し郊外に足を延ばし高島岬には鰊漁網元の住居兼作業所、小樽鰊御殿がある。道指定文化財であるこの建物も日本海の眺望と共に見応えがある。最近、運河沿いの元倉庫に全国の有名ラーメン店が集合した小樽運河食堂も人気が出ている。 |
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小樽市指定歴史的建造物:旧青山別邸は、青山留吉、政吉の親子二代に亘り財を成し、青山家最盛期の大正7年に着工した。
当時、にしん大尽と呼ばれた政吉は、美意識が高く、一流好みでした。 その為元場(にしん御殿)と は違う芸術的な建築物を目指し、約6年半の歳月を
要して完成させた。また、狩野派の流れを汲む日本画の絵師たちが競って描いたふすま 絵、書も見事なもので、祝津がにしん漁で湧いていた時代の お金に糸目をつけず贅をつくし
た豪邸であり現在は有料で公開されている。 |