★寛文12年、河村瑞軒によって開発された北前船の西廻り航路は、御手洗を重要な港まちと位置づけられることとなった。北陸や奥州の米やニシン、昆布などを大阪、京都へ運ぶ中継点となったのである。特に米の“御手洗相場”は大阪の米相場を見ながらこの港で需給を調整したとして有名である。さらにこの港町は参勤交代のため、九州、四国の大名達の立寄る港でもあった。広島藩公認の茶屋が4軒(若胡屋、藤屋、堺屋、海老屋)あり、その内の1軒、若胡屋は現存する。この若胡屋だけで遊女を100人以上かかえていたと言われている。江戸時代の日本の花まち番付ベストテンに入っていたと言う資料もある。 肥後の細川越中守などは、一夜千金の金を落とし、豪遊したとされる。オランダ商人フィッセルも彼の日誌に若胡屋で遊んだことが記され、同じくテーレマン・パクも駐在し、広島藩や薩摩藩等と密貿易をしていた。これを御手洗交易という。 このように、豪商と大名とオランダ商人、そして座を盛り上げる遊郭と芸人、富や文化が集積した御手洗は、鎖国を続ける江戸幕府に、揺さぶる舞台となる。 |
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