風待ち 潮待ち 御手洗
               交 通 : 竹原港より高速艇40分で御手洗又は、豊港へ。
                   所在地 :広島県呉市豊町御手洗

広島県の竹原港から、おだやかな瀬戸内海を高速艇で40分、大崎下島に御手洗の港がある。現在は、高齢者が主体のみかんの栽培と、内海漁業の村であるが、源平の合戦 秀吉の天下統一、幕末から明治維新と、わが国の歴史の転換期に登場する数奇な運命を持つ港まちでもある。
御手洗の地名は、平清盛が上洛のこの地で手を洗い、観音様にお祈りしたと言われることや又、神功皇后が三韓侵略のとき、この地で手を洗われたことや、菅原道真が太宰府へ流される途中、御手を洗い天神地祇にお祈りしたとされるところから命名されたといわれている.南潮山満舟寺は、四国攻略の前戦基地として、加藤清正が築城したものと伝えられたる。戦国時代の特徴である「乱れ築き」の立派な石組みで造られている境内には、芭蕉百回忌にこの地に俳人達が集い建立した、「誰彼塚」という句碑もある。文化人の集うまちでもあった。
寛文12年、河村瑞軒によって開発された北前船の西廻り航路は、御手洗を重要な港まちと位置づけられることとなった。北陸や奥州の米やニシン、昆布などを大阪、京都へ運ぶ中継点となったのである。特に米の“御手洗相場”は大阪の米相場を見ながらこの港で需給を調整したとして有名である。さらにこの港町は参勤交代のため、九州、四国の大名達の立寄る港でもあった。広島藩公認の茶屋が4軒(若胡屋、藤屋、堺屋、海老屋)あり、その内の1軒、若胡屋は現存する。この若胡屋だけで遊女を100人以上かかえていたと言われている。江戸時代の日本の花まち番付ベストテンに入っていたと言う資料もある。 肥後の細川越中守などは、一夜千金の金を落とし、豪遊したとされる。オランダ商人フィッセルも彼の日誌に若胡屋で遊んだことが記され、同じくテーレマン・パクも駐在し、広島藩や薩摩藩等と密貿易をしていた。これを御手洗交易という。 このように、豪商と大名とオランダ商人、そして座を盛り上げる遊郭と芸人、富や文化が集積した御手洗は、鎖国を続ける江戸幕府に、揺さぶる舞台となる。

慶応2年坂本龍馬の仲介で、長州藩桂小五郎と、薩摩藩西郷隆盛との間で藩長連合が成立、天下の形勢が流動的となり、広島藩は御手洗の金子邸で、長州との間で倒幕の密約『御手洗条約』を交わし、このように御手洗は歴史の交差点に再々に登場し、陰の舞台となった。町は一峰寺山の北東、海岸沿いの僅かな平地に、海岸と平行にはしご状に2本のみちとそれをつなぐ海に垂線を描く多くの路地からなる。建物は平入りと妻入りが混在するが、年代の古いものは妻入りが多い。2階窓庇を屋根に取り込み出桁形式の大きな窓は、入母屋造りのようにも見える。1階は前面、半間突出し格子が入れられている。建物は塗り家造りが多く破風も塗り込めとしている。町を見下ろす公園からみかん畑越に見る瀬戸内海の眺望がすばらしい。
 

この町を旅する便利な情報集   

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