兵庫県の内陸部、丹波の篠山は古くから京都と山陰、山陽を結ぶ交通の要衝であった。
慶長14年(1609)徳川家康はこの篠山の位置に着目し築城した。城下町は正方形の城にあわせほぼ方形に造られ、城郭の周りに家老屋敷が置かれ、外壕の北・東・南側に上級武士の屋敷、西側に徒士住宅が配置された。さらにその外側、西側と南側に足軽住宅、北側、東側に町屋を、また街角に神社や寺を配して非常時の陣構えとするなど、近世城下町の定法に則った手法となっている
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明治32年開通した鉄道(現・ JR 福知山線)を町中に通過させず、町の西に外れた篠山口駅を最寄り駅とした結果、町中の近代化を防ぎ、武家屋敷と商家が混在し良好な状態で城下町景観を残すこととなった。
河原町商家群の特徴は、妻入町屋が連続して並ぶ景観である。これは、敷地の間口が三〜四間と狭く、奥行きが二十間と深い都市型町屋に見られる建築形態である。間口が大きくなると採光などの条件が有利になる平入町屋となるが、篠山は、圧倒的に妻入商家が多くなっている。
御徒士町(西新町)武家屋敷群の特徴は、道路から半間(約一b)下げて犬走りを設けて土塀(築地塀)を設置し、母屋はその土塀からさらに二間ほど後退して建築されている。築地塀は草葺きの棟門をもっている。これらの土塀は、天保の大火からの復興に際して、火災への備えとしての設置されたものであると考えられる。
本屋の屋根形式は草葺きで、その形式には直屋 (すごや) と中門建 (ちゆうもんだち=角屋) の二種類がある。特に篠山の城下町景観は中門建が多い御徒士町によって、他地域の武家屋敷とは際だった違いを見せている。この屋根形式は丹波や摂津の農家に多く見られる形式で、この地方の民家の特徴となっているものである。 |