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出水は、亭徳2年、島津用久が出水亀ヶ城の本丸「水夫ヶ城」を築き支配した。ここは、肥後国との国境に位置し、防衛戦略上重要な位置にある。西北は不知火海に面し、東は矢筈山系、南には高峰紫尾山系と接しており、これらの山から米の津川が蛇行し、小原扇状地、米の津沖積面及び不知火海の干拓地から出水平野を形成している。薩摩藩は鹿児島の亀丸城を本丸として、領内を113の行政区画を設け、それぞれに外城を建設、外城に於ける統治の中心地を麓と呼称し、武士を移住させた。出水麓はその中で最も古く最大の外城であった。 |
出水麓は、平良川と米の津川の合流地点に両川に挟まれた周囲より一段高い海抜30〜45mのシラス台地を整地して建設された行政新都心である。背後には、中世の山城である水夫ヶ城があり、山と川で自然の要塞としている。台地の西北角に寺院(西照寺)を設け、麓の入口と決めた。西照寺から亀ヶ城跡「大手門口」を結ぶ軸線が竪馬場で道巾が広い、これは軍隊編成を配慮したものとも言われている。。みちはシラス台地を削り下げて建設した。つまり敷地はみちより約1m前後高くなっている。 |
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諏訪馬場と竪馬場の間のゾーンがこの麓の骨格となり、東西道は、野間口を起点に東方の矢筈山系の姿の美しい山を目標に建設され、仮屋門正面のみちを仮屋馬場とした。同じく鬼坂を起点として東方のビスタを重視した東西道は菱刈街道となり113の麓をネットワークする幹線である、このように出水麓の計画は、地形を生かし、眺望を重視し、明解な軸線でまちに整然としたリズムを与え、亀ヶ城跡へ集中する視線は、為政者への敬服の念とランドマークとしてのまちに中心感を与えている。住まいの特徴は、敷地の広さは、一般的に400坪〜500坪位である。各敷地内には、主屋、門、付属屋、氏神を祭る社が配置されていた。 |
主屋の座敷は武家屋敷で重要な意味のある接客間であって、必ず庭が設けられた。主屋の座敷は、通りの石垣に近い所に配置され、座敷と石垣の間は庭園とされた。この為、庭園は、座敷から観賞だけでなく、まち全体に緑豊かな季節の風情の薫る町なみとなっている。現在公開されている建築に竹添家と税所家がある。竹添家は竪馬場と仮馬場の交点にあり、しかも野間口坂の入口に立地する特別な場所である。税所家は、正面9間半、側面7間半の切妻造りで、東側に接客空間、西北に居住空間を鍵型に配している。町なみ景観を特長づける要因に、通りに面して建てられた控柱付腕木門と丸みを帯びた小径の川石で組まれた野石積みの石垣が麓全体に調和して、出水麓武家屋敷群の記憶に残る景観を造りだしている。 |
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