|
・まちのおいたち 弘前の初代藩主、津軽為信は秀吉の小田原攻めに際し認められ4万5千石の所領を得た。城下町は、慶長8年に計画し、2代目信政によって完成し、「弘前」と改称された。4代信政の時、積極的に新田開拓を行い、公称4万5千石であるが、実高は60万石と推定され、城下は日本有数の豊かなまちとなった。その天守閣は、東日本で唯一現存している。 現在の町名も、城下町特有の亀甲町、鷹匠町、若党町、鉄砲町、大工町、寺町、代官町等当時の名称が残っている。 城下の建設にあたり、西に岩木川、東に土淵川を天然の要塞とし、南には領内各地の60の主要寺院を移転させ、東の侍町とともに城の防衛線を形成した。 |
武家屋敷町から西を見れば、津軽の人々の原風景として親しまれ美しくそびえる岩木山(1625m)が目前にせまり、南を見れば天守閣がそびえる。このまちの人々は、お山(岩木山)、お城と呼び、日々平穏な生活を守護してくれる西、南の二つの高い存在に敬愛の念を抱いた。
・町なみの特徴は、サワラの生け垣と黒い薬医門そして主屋の配置にある。サワラの生け垣による統一は、四季を通じて緑に囲まれた町なみを造り、生け垣の奥の庭木が変化のある表情を醸し出す。 |
|
|
安政5年、藩の「おふれ」に「表通りは生け垣にするように」と触れられ、今日まで統一した美しいまちなみが継承されている。サワラは、岩手県が北限とされていたが、弘前に植えることで、生育が遅くなり生け垣に適する。門は、黒塗りの薬医門が多い。薬医門は親柱背後に控え柱を立て、棟木をその中ほどに通し、切妻屋根を掛ける。屋根は長柾というヒバの割木羽葺きが多い。 屋敷の地割と住居の配置に武家屋敷町の特色を見ることが出来る。この地区はよく旧形をとどめていて間口は、おおよそ15m〜20m程度で、奥行きは70m前後の地割である。このような細長い敷地が並ぶ東西道路を挟んで南北に奥行きのある地割の町なみである。 |
住宅の配置は、南道路、北道路にかかわらず道路境界から3間半ないし5間程離し、その間は玄関へのアプローチのほかに10〜20坪の前庭をしつらえた。つまり道路に対して左右とも、主屋は後退され、生け垣と主屋の間に庭があり、様々な庭木がまちなみ景観に貢献する配置である。この原則は、道路の向きや敷地の方位に関係なく守られている。住宅は、敷地の方位に関係なく、道路側から座敷部(玄関、庭園、座敷)、常居部(居間)、台所部とパブリックな空間から、プライベートな空間へと段階的に移行する。つまり、道路の中心線に対し左右対称の“へいなみ”“いえなみ”となるシンメトリックな“まちなみ”が成立る。
・代表的な住宅は、旧岩田家住宅、旧伊藤家住宅、旧梅田家住宅等で、いずれも公開されている。旧岩田家は知行300石、敷地間口16間、奥行き43m、建物は道路から9m程離し、その間を庭としている。来客は、玄関か庭の見える座敷へ直接入ることが出来るのが武家屋敷の特徴である。
|
|
|
|