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萩の町は、土塀越しのたわわに実るミカンがなんとも印象的な町である。
関ヶ原の合戦で西軍の総大将、毛利輝元はその決戦に際し、自らの大軍を動かさず静観させていた。これは、密かに徳川方と通じ毛利の所領中国8ヶ国120万石を安堵するとの条件で交した約束があったからである。しかし、戦後6ヶ国を没収され、周坊、長門の2ヶ国、36万石に縮小され交通の要所、瀬戸内海岸に本城の建設を許されず萩に押し込められた。萩の町は、中国山地から流れる阿武川が河口近くで松本川と橋本川に分かれ、中央に湿地帯の中の島(萩浦)を形成しながら日本海に注いでいる。この島の先端には日本海に面し標高134mの指月山がある。 |
輝元は、ここを天然の要塞とし、指月山の山頂に詰丸と、その山麓に5層の天守の萩城を築き、湿地帯を開拓し、内堀と外堀の2本の堀を建設し、内堀の内側は城内とし「御城内」とした。内堀と外堀の間は「三の丸」とし、「堀内」と称した。ここに、一門の永代家老や重臣達の屋敷と各種の役所が設置された。元120万石の大名であっただけに、この「三の丸」地区、堀内地区の武家屋敷町の面積の広いことが萩城下町の特色である。現有する建造物としては、永代家老益田家の物見矢倉、旧周布家の長屋門、永代家老福原家の屋敷門があり、そして口羽家では表門と主屋並びに庭園が保存され、ことごとく解体された萩の町で貴重な存在である。 |
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表門は、萩に現存する最大のもので、桁行22m、梁間4、9mある。この門は江戸藩邸の門を拝領して移築したと伝えられ主屋と共に国の重要文化財である。萩は土塀の町なみである、しかし、土塀の中に主屋はなく塀越しに夏みかんが見えるのが萩のまちなみ風景となっている。これは、明治維新後、藩庁を山口に移転した為に重臣達も移住したためである。天守閣は競売され、(落札価格1013円余り)堀内地区の建物、庭園も取り壊され、その後をみかん畑とした。土塀はみかん畑を守るため残されたのである。平安古に土塀で囲み、見通しをきかなくした「鍵曲」といわれる鍵手形道路がのこっている。 |
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椿東地区には、松蔭神社があり、高杉晋作、伊藤博文達の維新の志士を育んだ松下村塾も保存されている。この町は、桂小五郎、山県有明、村田清風ら日本の近代国家建設の原動力となった傑出した人物を多く生んだ。このエネルギーは毛利家の歴史と情報力にあるのではないか。鎖国の続く藩政時代にも、大陸に近い地の利を生かし「明」や「朝鮮」との交易を続け、富とともに、世界の情報を得たのである。 |