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★秋月街道は、豊前小倉から、筑後久留米に至る道で、その中ほどの山間の盆地に城下町「秋月」はある。福岡藩の儒学者貝原益軒は「筑前国続風土記」の中で、「此里山林景色うるはしく、薪水の便よく、材木乏しからず、且山中の土産多き事、国中第一也」と賞賛している。
地形は、町の東にそびえる標高850メートルの古処山を背景に、そこを源流として町を東西に流れる野鳥川沿いの小さな盆地に造られた清楚な佇まいの町なみである。 |
おいたち
鎌倉時代からこの地を支配していた秋月氏は、古処山の山頂に山城を築いたが、日常は、麓の丘陵に荒平城を構えここを居館とした。秋月氏は天正15年、豊臣秀吉によって日向高鍋に移封され、関ヶ原の合戦以後は、黒田長政の領地となった、長政の三男、長興は1624年(寛永元年)城下の屋敷割りを行い、現存する町なみの基礎となる近世城下町の建設を奨めた。 |
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★まちなみ
町の構造は、東南の隅を(旧秋月氏の居館)居城とし、その西側一帯と北側を武家屋敷町とした。城の北側を東西に流れる野鳥川と並行して通る秋月街道に沿って町人町とした。町の出入り口等、要所に桝形が設けられた。その一つに町の西端、甘木方面の入口に架けられた眼鏡橋は、1810年の完成で御影石で造られた橋としては全国で唯一のもので県指定有形文化財である。眼鏡橋付近が下町で上流へ中町、上町と続く。上町から南へ武家屋敷方向へは杉の馬場となり、秋月城跡までは、桜と紅葉が美しい市民の憩いの場となっている。 |
代表的な建物は、秋月藩の上級武士であった「戸波家」の旧屋敷と庭園は、秋月郷土館として公開されている。又、町家では、名産の秋月葛の製造を営む高木家が下町に寿泉苔を商った豪商遠藤家の遺宅が中町にある。この町を魅力的にしている要素に清流を巧みに取り入れた池庭が見逃せない。北側の家は主屋の背後、屋敷の縁の下に水路を貫通させ、南側の家は主屋の前面を流れる水路から水を引き込んで、山合いの盆地に水と緑の清清しい町なみとなっている |
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