ドラマ宮本武蔵の舞台 宿場町平福
宮本武蔵が最初に決闘をした
 

      所在地  所在地:兵庫県佐用郡佐用町平福
      交 通 JR智頭線、平福駅徒歩3分
               中国自動車道佐用インターより10分

平福は、因幡街道の落ち着いたたたずまいの宿場町である。古くは、鳥取の池田藩の本陣が置かれていた交通の要衝でもあった。
 武蔵が、育ち、生活をしていた岡山県英田郡大原町宮本の実家からは、釜坂峠を越えて歩くと、2里(約8km)ぐらいの距離である。武蔵(幼名;弁之助)が預けられていた叔父の正蓮庵は、平福の中心地から2kmほどのところにある小さな庵であった。
 旧因幡街道と並行して流れる佐用川は、穏やかでゆったりした川である。武蔵が最初に決闘をしたとされている場所はこの川沿いにある(左)
決闘の相手は新当流有馬喜兵衛で武蔵が13歳の時であった。決闘の話を聞いた叔父は、使者と一緒に、喜兵衛の旅宿に行き、「なにぶん年端も行かぬ子供の悪戯でやったこと」と何度も何度も許しを乞うた。喜兵衛は聞き届けた。そして、決闘の当日、宿場のはずれの金倉橋の試合場所に着き、叔父の僧は、竹矢来の中に入り、「喜兵衛殿、昨晩も申し上げましたように、あれへ参る子供でございます。試合の儀は、何卒御容赦ください」と言っているうちに、弁之助がやって来た。弁之助は、「喜兵衛とは、その方か。さあ、立ち合え」と大声をはりあげ、いきなり走りかかって、その棒で打ちつけた。喜兵衛は、子供の悪戯と思い油断して、ひるんだ隙に棒をとって立て続けに喜兵衛を打ちつけ、打ち殺してしまったと言う。(写真2)

  まちなみ
平福の町並みは表側よりも裏側の方が素晴らしい。佐用川の川岸には、ゴロタ石を積んだ石垣上に、妻側や平側を見せた土蔵が変化に富んだ表情で建ち並び、水面に姿を写している風景が良い。土蔵は白壁がまだらにはげ落ち、下塗の土壁の色を見せている、下塗の黄土色の土壁がまた美しい。絵になる風景だ。
代表的な民家に天神橋近くの"瓜生原家"がある。瓜生原家は、享保年間に津山から移り住み、代々「吹屋」の屋号で鋳物業を営み昭和初期まで続いた。切妻越の屋根を初め大屋根の煙出し、目隠し、潜り戸、ブッチョウ造り、出棺口、格子など町家の特色を多く備えている(写真左)。旧田住家は、代々大庄屋役を務め、池泉鑑賞式の庭園が現存する。



ここは中国山脈の山中にもかかわらず舟宿であった。表通りからは解かり難いが、裏の川側にそれと知れる痕跡が残っている。対岸から見ると土蔵の間に階段があり、家の下の石垣に戸が立っていたりするが、これが舟からの出入口である。(写真5)ここに運ばれてくる物資は困幡や美作のなどの山奥のもので小舟に乗せられてくる。ここから下流は川が大きくなるので、ここで高瀬舟に乗せ換えて下流の赤穂などに運んだ。平福はそうした物資輸送の中継点であった。

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