戦国時代の宗教都市 今井町

交通  西名阪自動車道 郡山インターより10分
           nnnnnnnnnnnnJR京都駅から近鉄京都線橿原神宮行き八木西口下車徒歩5分
所在地 奈良県橿原市今井町1丁目ほか

今井寺内町は、全住戸800戸の内80%が江戸時代の民家を現在も、大切に住まいとして、活用している貴重な集落である。おいたち この付近は、荘園時代興福寺の荘園であった。応仁の乱以降荘園制度は崩れはじめると共に、庶民の間に新興仏教一向宗(浄土真宗)が隆盛して興福寺と対立するようになった。今井には一向宗門徒が集住し周囲に濠を巡らし自衛体制を整えた。そのため、興福寺は村々を焼き払う“今井焼き”を実行する。しかし、今井は再び称念寺を中心に寺内に信徒を居住させ、周囲に濠を掘り土居を築き竹を植え中を見え難くし今井兵部を領主に環濠集落を造る。

これは宗教による思想の統一と団結そして防衛軍事力を持つ一つの都市国家とも言えるものである。このような環濠集落は、今井のほか、若槻、稗田等、奈良盆地に多数建設された。その防衛力は強力で、奈良平野での幾度の戦乱にも動じず、むしろ安全地帯として亡命者の受入れさえもを行った。

時が過ぎ、織田信長が天下統一を目前にした時、残る反“信長”勢力は本願寺(一向宗)が中心であった。信長は11年間に渡り本願寺を攻め、各地の環濠集落を攻略した。大坂夏の陣の後、秀吉側も今井を攻めるが、今井軍はこれを撃退し、徳川の世となって家康はこの功を称え、今井を優遇し私札の発行を許し商業を盛んにし天領として惣年寄に司法権、警察権を委任した。こうして自由都市として“海の堺”“陸の今井”と言われる程、商業、貿易の中心地として繁栄した。

まちなみ まちの構造は、東西600メートル、南北350メートルの環濠内を条里型の町割りを取りながら、道路の要所を防衛上屈折させ見通しの効かない構えとし、みちの正面には白壁の倉が配置されている。外部との接点は10カ所に出入口を設置、北西、南西の角には、市民広場や、軍事広場を兼ねてか八幡神社、春日神社が設けられている。本部でもある称念寺は南中央部にある。 今井寺内町には、国指定の重要文化財の民家が8軒ある。その一つ、今西家はわが国を代表する民家で自治集落の要、惣年寄を務めた家柄で、取り調べの“お白州”や“拷問部屋”もある。棟違いの破風の優美な曲線が印象的な民家と言うよりも城郭建築を思わせる。慶安3年の建築で、別名八棟造りとも言われている。豊田家は以前、材木商牧村家の所有で屋号を「西の木屋」を称し、その豊富な財力は、大名貸しも行っていた。

環濠は、濠が車社会の到来と共に続々と埋められ、道路となったが1部分だけ残されており、幅3間の堀と、さらに内側に幅3間の竹を植えた、土居を確認することができる。

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