ドラマ”新撰組”ゆかりの
坂本龍馬とお龍の
「寺田屋」がある
伏見
土方才蔵、沖田総士 husimi

                         所在地 京都市伏見区南浜町ほか
                         交 通  JR奈良線桃山駅・近鉄桃山御陵駅・京阪電車伏見桃山駅下車

新撰組が京の町を闊歩していた頃・幕末の港町として栄えた船宿の1つに薩摩藩の定宿であった「寺田屋」がある、この宿は2度の大きな事件の舞台となったが現在も当時の姿をののままに、旅館を経営している。
初めの事件は文久2年(1862)4月、薩摩の有馬新七田中謙助らの攘夷派は、関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義らを抱き込み攘夷討幕の詔勅を得ようと「寺田屋」で挙兵の準備を進めていた。しかし当時、薩摩藩主島津久光は、公武合体の穏和策を進めおり彼ら攘夷派はその場で惨殺された。
2度目の事件は慶応2年(1866)1月23日、坂本龍馬、三吉慎蔵らは薩長同盟を成立させ「寺田屋」で祝杯を挙げていた。

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24日午前3時頃伏見奉行所の捕り方に襲撃されたが入浴中であった“お龍さん”(後に竜馬の奥さんとなる人)の献身的な計らいで助けられたが多くの同士を失った。
この地は、淀川の水運に恵まれ、京・大阪両都市の中継地となり、京都の外港でもあり、又、大津方面への塩の輸送基地ともなった。
現在は観光客用に十石船が運航され船の中から低いアングルで見る伏見に景観を楽しむことが出来る。

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慶長14年(1609)角倉了以による高瀬川の開削によって京都とは運河で直接結ばれることとなり二条木屋町の一の舟入りからは15石積みの高瀬舟(伏見に100艘)で伏見に下り、淀川を通し大阪へと人や物資が運ばれた。その為、船宿・諸荷物問屋・旅籠屋が軒を並べ、商業の町として賑わった。伏見は古くは伏水と書いたように、地下水に恵まれていた。その上、近江の酒米と盆地のよる冬の冷え込みや丹波地方からの杜氏の人材にも恵まれ酒造業発展の条件が整い特に明治以降の酒造業の発展はめざましい。大正時代には45の業者があり全国の3%の生産高を誇った。
現在の伏見の町並み景観はこの酒造業の建築群が中心である。特に大倉酒造(商品名:月桂冠)を主体とした酒蔵が伏見の風景として印象的である。

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伏見は、京都中心部から南東に約8・、桃山丘陵西縁の緩やかな段丘及び扇状地に開かれている。
おいたち:伏見という地名は「日本書記」雄略天皇17年3月2日条に記載がある。しかし古代の伏見は、京都とは別の世界であった。この地が大きく変革するのは「平安京の造営」と秀吉の「伏見城(指月城)の築造」である。「平安京」が出来、貴族達は、この郊外の丘陵地を別荘地として又、遊猟の地として活用した。文禄元年(1592)豊臣秀吉はこの地に築城し天下人の城下町として日本の中心機能を背負った。

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伏見桃山城は、秀吉の伏見城(指月城)の跡に多くの桃の木が植えられて呼称されるようになった。明治以来、宮内庁の管理下にありその遺構は、ほとんど手つかずで残されているようである。現在の“伏見桃山城は、園地として、伏見丘陵の麓、宮内庁の管理地外に建設されたもので位置も外観も秀吉の指月城とは異なる。
 観光船「十石舟」は。月桂冠大倉記念館南側の舟着場から出航し、折り返し点の三栖閘門(みすこうもん)で資料館を見学する約50分のコースです。季節によって変化する川辺の風情をお楽しめる期間限定で十石舟の夜間運航や三十石船も出航している。

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