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方士徐福伝説の蓬莱の島

桜の綺麗な、石積みの島祝島

          交 通 : JR山陽本線、柳井港駅下車、柳井港から定期船(1日2便)70分 
          所在地 : 山口県熊毛郡上関町祝島
 

おだやかな瀬戸内海の海を久しぶりの船旅に心が弾んだ。
島に近づくと、山桜で島はピンク色に見える。見事に島全体が桜に包まれているではないか。
古代には、祝島から姫島、国東への航路が九州へ渡る主要な、かつ最短コースであったとされる。祝島はその寄港地であり、航海の安全を祈る為の島であったと思われる。中世では、防長2国の港町としての要所で、上関・中関・下関の3関があった。下関は現在の下関市である。中関は三田尻で、上関が室津半島と小島に挟まれたこの附近の海峡である。
この島は、壁や塀、階段など全て石積みである。
島に平坦部は少なく、道は、細く迷路のようで、等高線を蛇行するように不規則に曲がる。その両側を、白いモルタルでコントラストも鮮やかに石積みの壁が迫る。基本的には、強風から住まいを守る為の塀であろうが、敷地が狭いので所々この石積みを壁として家が造られている。
石積みで構成される町なみはイタリアの山岳都市にも似た集落景観である

祝島は、伊予灘と周防灘の接点附近に位置する周囲12キロ、人口約700人の島で、昔から、瀬戸内海を、行き交う船の安全を守る神霊の島として崇められてきた。このことは”草枕 旅行く人を伊波比島 幾代経るまで斎ひ来に けむ ”と、万葉集にも登場することから奈良時代からすでに海上交通の要所であったと思われる。
祝島の名の由来であるが、「祝」という語は古代以来の神職の名称の一つ、”ほうり”とも言い、

祝部とも称した。この語の初見は、「日本書紀」に仲哀天皇が正月条で海路安全を祈るため伊賀彦を以て祝として祭らしむとある。つまり、その祝のいる島が、祝島と呼ばれるようになったとも言われる。

港近くの神社の境内には、紀元前二世紀に始めて中国大陸を統一した秦の始皇帝が、方士徐福に命じ探し求めたという、不老長寿の秘果「コッコー」が実をつけ、中風が治るという「蓬杖」もある。
「コッコー」は、羊羹に加工され、島の特産の、お土産として販売されている。

















島の伝統として、山口県指定無形文化財に指定されている「神舞」が4年に一度開催される。この祭りは、九州(国東半島)から、海を渡る御輿として注目されている。(次回は平成24年8月)
伝承によると今から1100余年の昔、仁和2年8月、豊後伊美郷の人々が山城国石清水八幡宮より分霊 を奉持して海路下向中、嵐に会い祝島三浦湾に漂着し た。
左は平成12年のポスター

 




当時この地には3軒の民家があったが、生まれる 子供は体が弱く生活は苦しかったが、彼らは一行を心 からもてなした。その時に教わった荒神を祭り、農耕(麦作)を始めたことにより、以後島民の生活は大きく向上。それからそのお礼にと、島民は毎年8月に伊 美別宮社に「種戻し」に欠かさず参拝をした。そして5年毎に伊美別宮社から20余名の神職、里楽師を迎え、本島を斎場として神恩感謝の合同祭事を行うようになった。これが神舞神事の起源である。神舞では3隻の神船を中心に櫂伝馬船等、百余隻に及ぶ大漁旗で飾った奉迎船が織りなす、勇壮な入船・出船の海上神事が行われ、古式豊かに33類の神楽舞が新調の苫で小屋掛けされた仮神殿で奉納される。

 

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